大和小学校誕生 大和小学校は昭和17年9月1日、東町国民学校として設立認可されました。当時は太平洋戦争の真っ只中、工業都市室蘭は日鐵・日鋼が軍需産業として増産体制に入っていました。 東町国民学校(大和小学校)は知利別国民学校と鶴ヶ崎国民学校のこどもたちあわせて1126名でスタートしました。 |
開校当時の木造校舎 |
グランドが芋畑に 戦争が激しくなるとグランドは掘り起こされ、食料確保のために馬鈴薯畑と変わってしまいました。校庭には地上式防空壕を作り、防空演習に明け暮れる毎日でした。 |
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艦砲射撃 終戦間際の昭和20年7月室蘭にも敵の弾が飛んでくる日がついにやってきました。敵の艦隊による艦砲射撃です。そのとき、多くの子ども達が通ってきていた輪西地区が直撃されたくさんの人がなくなりました。開校3年目の悲しい出来事でした。 |
防空頭巾 |
平和の訪れ 長かった戦争が終わり、日本にも平和が訪れました。東町国民学校が東町小学校に変わり、元鶴ヶ崎校校下の一部児童が来ることになり、校名が今の室蘭市立大和小学校になりました。昭和22年6月のことでした。 |
ブリキのおもちゃ |
児童数2900名 となりの国でまた戦争がはじまり、室蘭の2つの製鉄所はたくさんの鉄を作り始めました。工場はドンドン大きくなり,そこで働く人の数も急激に増え始めました。そこで働く人の子ども達の多くは、大和小学校や大沢小学校、知利別小学校へ通っていました。昭和28年頃大和小学校の児童数は2900人ほどのなり、学校は子どもの数で膨れ上がっていました。 |
昭和30年大運動会 |
2部授業 あまりにも児童数が多いので、昭和28年4月から授業を午前と午後の2部に分けて行うことにしました。一クラス74人というクラスもありました。1年生だけは2部授業をせず教室に無理やり詰め込んで先生が後ろの方の子どものそばに行きたくてもいけなかったそうです。 午後の部の子ども達は朝食が終わると遊びに出かけなかなか帰ってこず探しに行くとイタンキ浜で遊んでいたそうです。学校へ行くのを嫌がり親は引きずって学校へ追いやったそうです。 |
昭和33年11月の学芸会の様子 |
児童766名転校 となりに東園小学校ができ、通学地域を変更しました。それにより、大和小学校から766人の児童が転校していきました。仲のよい友達と別れて寂しかったでしょうね。昭和30年8月25日のことでした。さらに昭和32年にも通学地域の変更がなされ235名が東園小学校へ転校していきました。 |
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「大和のわれら力あり」校歌完成 今も子ども達が元気よく歌っている校歌が昭和31年に制定されました。「心を合わせてをつなぐ 大和のわれら力あり・・・」声たからかに元気な声が学校中に響きわたったっことでしょう。 |
昭和40年頃の学芸会 |
木造校舎から近代校舎へ 開校当時から使われていた木造校舎もだんだんいたみが激しくなってきました。新しい校舎改築を望む声が高まり昭和39年から新しい校舎が作られることになりました。昭和43年に今と同じ校舎が完成し改築記念式典・祝賀会が盛大に開かれました。その校舎も今はもうかなりいたんできていますよ。 |
新校舎落成 |
スケートリンク造成 新しい校舎が完成した頃、冬の楽しみの一つとしてグランドにスケートリンクが造られました。寒さに負けず元気にすべる大和っ子の歓声が聞こえてくるようです。 |
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昭和50年代、60年代、そして平成へ 鉄鋼不況のあおりを受けて鉄の生産を減らさなければならなくなりました。そのため、製鐵所で働いていたたくさんの人が本州各地の各製鉄所へ転勤することになりました。それで、大和小に通う子ども達の数も年々減りつづけ平成4年には400人を割るほどの数になってしまいました。そして、いま閉校を迎える今年、児童の数は176名となってしまいましたが、大和の伝統と誇りをしっかり胸に抱き、子ども達は自分の力で一歩一歩歩みつづけているのです。 |
平成14年1年生を迎える会より |